「障害者」の自称と他称、障害者の被差別意識

まず、障害者とは何なのかというところから話を始めます。

公的な意味での障害者とは、障害者手帳を取得している人のことを指します。よって精神障害者について言うと、同じ双極性障害を持っていても、障害者手帳を取得している人は公的に障害者として扱われます。一方で障害者手帳を取得していない人は障害者としては公的に扱われません。よって、障害者向けのサービスは受けられません。

障害者向けのサービスは、【精神障害者保健福祉手帳について】というエントリーをご参照ください。

例えば、私がお付き合いしている人は、医師から統合失調症であるとの診断を受けているのですが、障害者手帳を取得していません。職場でもその診断はクローズにしているため、統合失調症を患いながらも対外的には健常者として生きています。

さて、ここで本題に入ります。「障害者」の自称と他称というタイトルから分かるように、自ら障害者であると称することと、他者から障害者であると称されることについてです。

自称する際には、自分が障害者であることを受容していることが必要です。障害者向けのサービスを受けることなどで、自分が障害者になったのだという自覚を持つことは徐々に出来るだろうと思います。しかし、それは受容とは別の話です。

双極性障害の場合は、発症年齢は15~19歳が最も多く20~24歳がその次に多いと言われているため後天的な障害だと言えます。少し話を逸らすと、その発症メカニズムは解明されておらず、遺伝要因やストレス脆弱性モデル、ミトコンドリアのクエン酸回路異常があると言われています。

つまり、後天的ということは双極性障害とは縁がなく生きていけていた時期があるということです。それが何らかのトリガーによって双極性障害を発症してしまい、うまく生きられなくなってしまう。正常に生活を送れていた時期と、発症後のギャップに苦しみ、受容することが困難なのだろうと思います。そのため自嘲的・自虐的に「障害者」と自分で言うことは出来ますが、現実を重く受け止めた上で落ち着いた姿勢で、自分の障害と真正面に向き合いながらそれを自称することは困難だと思います。よく、お付き合いしている人に「君は病気の話をするときに何故そんなにへらへらするんだ。今は深刻な話をしているんだよ」と言われます。双極性障害を患っている方と少し話したことがあるのですが、そのようなへらへらとした態度は自分を守るためでもあります。現実を見つめるキャパシティがないため、現実から一歩引いたところで話をしようとするのです。この点は「障害者」の自称とリンクするのではないでしょうか。

他称される際には、自称に必要な受容が困難であることから、他称を冷静に受け止めることは非常に難しいのではないかと思います。勿論、斜に構えた姿勢や諦念しきった状態であれば、聞き流すことは可能かもしれません。しかしそれは他称を受け止めているとは言えません。真正面から真っ直ぐにそれを受け取るなんてことは、受容だけに留まらず多大なエネルギーを要するように思います。

私は私のことを指した「障害者」という言葉のみならず、周りの人が誰かを指して「障害者」と言うことについても免疫がまだありません。他称されることについてもそうですが、第三者間で障害者という言葉が日常生活において使われているときにおいても、そこに差別意識が垣間見えるから、冷静に受け止めることが出来ないのかもしれません。本当に差別意識が裏にあって発された言葉であれば、それに囚われれる時間すら勿体無いので思考を停止するのが最善策でしょう。差別意識が一切なく障害者を他称される場面といえば、医師の診察や役所での手続きが挙げられます。そのような時には、受容さえしていればあまり違和感や悲しい気持ちは湧きません。

そうすると、一般人が日常生活において「障害者」という言葉を発する際に差別意識があるのかどうかという話になってきます。私は双極性障害を患っていて精神障害者保健福祉手帳を取得している精神障害者です。具体的に差別された経験はまだありませんが、その言葉にはかなり敏感になってしまっています。

例えば知人が少し変わっている他者を指して「障害者みたいだ」と言った場合。健常者だったときの私なら、その知人に対してこの人は非常識だなと思う程度でしょう。しかし、障害者となってしまった私は、その知人とは縁を切りたくなるほどの不快感を覚えます。これは障害者であるため被差別の可能性があるという意識が私にあって、目の前でそのような言葉が発されたときに、そこに内在するか確かではないのに酷い悪意を見出してしまい且つその矛先を自ら自分にも向いているかのように考え、言葉を拡張してしまうのだと思います。

障害者という言葉を自分にも波及させてしまうことは、障害者であることを受容しているからこそのことのように一見思えます。しかしそれは本来あるべき受容の姿とは乖離しているのではないかと感じます。なぜなら、不必要な場面であるにも関わらずそのような言葉を自分にまで当て嵌めてしまうことで卑屈になったり不快感を得てしまうからです。自称する際の受容も同じで、歪な形の受容では自嘲的・自虐的になってしまうのだろうと思います。では、本来あるべき姿の受容とはどのようなものなのか。ここからは理想論になりますが、自分が健常者だった過去と障害者になった現在を見つめてそこから生産的な思考に結び付けられるのがそうなのではないかと考えます。卑屈になったり過敏になったりすることなく、また行雲流水的に諦念へ身をゆだねることなく、プラスに変えていけるのが出来たら良いのだと思います。

差別の対象となり得る存在になったからといって、深い差別的意識が含まれるかも分からないただの軽はずみな思慮の浅い言葉に対してまでも、ましては自分に宛てられた言葉ではないものについても反応してしまうのは些か食傷になるのではないでしょうか。自称・他称についても同じことが言え、自分の持っているエネルギー全てを使って真正面から向き合うことはできなくても、負の姿勢ではなく建設的な思考を持って生きていけたらと思います。

Meli Melo Bipolar Disorder

双極性障害を持つ20代半ばの女のブログです